侵略戦争で日本に収奪された中国文化財返還運動にご参加ください。

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●靖国の「獅子像」を知っていますか?

 東京・九段の靖国神社の境内には、何体かの石獅子像(狛犬)があります。このうち、大鳥居の手前にある一対の獅子像は、日清戦争の時に中国から日本に持ち出されたものです。

 『靖国神社百年史』には、この獅子像は、1895年に「清国海城三學寺より譲り受け奉納」したものであると書かれています。三学寺とは、唐の時代に建立されたといわれる中国遼寧省海城市にある古刹で、荒廃と再建を繰り返し、現在では遼寧省文物保護寺院となっている仏教寺院です。清の時代の1876年に、李永成という人物が同寺院に石獅子一対を奉納しました。これが、いま靖国神社に置かれている獅子像にほかなりません。

 現在の靖国神社は獅子像は「譲り受けたもの」と強弁していますが、戦前の靖国神社が編集・発行した『靖国神社誌』(1911年)には、「獅子据石一對。明治二十七、八年役の戦利品なり」と明記されていました。また、宮内公文書館所蔵の『明治二十七八年戦役 戦利品明細録 陸軍之部』にも「一 白石獅子 一對/山縣陸軍大将献上」とあります。山縣有朋が、日清戦争の戦利品として明治天皇に献上するために、獅子像をわざわざ三学寺から日本に運ばせ、「天覧」の後、一対は靖国神社に、別の一体は山縣に「下賜」された(こちらの獅子像も、栃木県矢板市の山縣有朋記念館に現存しています)ことは資料からも明らかです。当時上海で発行されていた絵入り新聞『点石斎画報』にも、日本軍が「海城聖人廟」から、2体の獅子像を台車に乗せて、騾馬に引かせて運び去る様子が描かれています。

●皇居内にも唐代の碑が

 「戦利品」とは、軍事力を背景に、現地から不当に持ち出された財物であり、侵略戦争の歴史を証し立てる存在でもあります。こうして持ち出された文化財は枚挙にいとまがありません。皇居内には「鴻臚井(こうろせい)の碑」という、巨大な石碑があります。これは唐が渤海王を冊封した事績が記されている歴史資料で、もとは遼寧省の旅順にあったものです。日露戦争で旅順を租借地とした日本軍が、1908年頃にこの石碑を搬出して、天皇に献上しました。皇居内にはかつて、侵略戦争の「戦利品」を収蔵した「御府」という施設もありました。収蔵されていた「戦利品」は、戦後勝手に溶解処分されてしまったのですが、「鴻臚井の碑」は、かつての「御府」の前庭にそのまま置かれていたものです。

 敗戦後、当時の中華民国教育部清理戦時文物損失委員会が作成した目録には、総計360万7074件、741カ所、1870箱にのぼる略奪品がリスト化されています。GHQも「略奪された財産の没収および報告」という指令を出し、1937年以降占領地から持ち出された略奪財産は、「日本の法規のうえで合法的であると否とを問わ」ず「略奪財産」と見なすとしました。略奪文化財の返還は、日本の戦後処理の一環として、大きな意味を持つものでした。

●収奪された文化財を元の場所に返そう

 しかし、実際に返還された文化財はわずかなものでしかありませんでした。いまなお、多くの博物館や美術館などでは、朝鮮や中国などから持ち去られた文化財が、それが日本に現存している由来など無視されたまま、堂々と展示され続けています。

 私たちは、近代日本が、植民地支配・侵略戦争を拡大していくに伴い、帝国主義本国が植民地・占領地に加え続けた軍事的・政治的暴力を背景として、不当に日本に持ち去った多くの文化財について、本来それがあった場所にそれを返還するという原則に立つことが、重要だと考えています。そしてそれは、近代日本の植民地主義と侵略責任を清算し、現地の人びとと共同して新たな歴史認識を打ち立てていくための課題のひとつであると確信しています。

 近年、欧米諸国では、戦時期に持ち去られた文化財を現地の求めに応じて返還する動きが進んでいます。ユネスコなどの国際機関も、文化財返還に関する条約を制定してきました。自国内にある収奪文化財の返還については一貫して後ろ向きな日本政府も、2000年代になってからハーグ条約(武力紛争の際の文化財の保護に関する条約)、ユネスコ条約(文化財不法輸出入等禁止条約)を批准ないし受諾し、また敗戦後日本から持ち出された文化財の返還要求もしています。

 三学寺から持ち込まれた獅子像や、「鴻臚井の碑」については、中国の民間賠償請求運動の中から、返還要求の声が上がり始めています。まず、日本に持ち去られた文化財の具体的な由来を明らかにさせ、不当に収奪された文化財を元の場所に返還させること、現地の人びととともにそうした声を上げていくことが、私たち日本に暮らす者の責任でもあるだろうと思います。ぜひ、そのための運動に参加して下さい。